よむこと、かくこと

本についてのいろんなこと

【映画】響 ~小説家になる方法~

響 -HIBIKI-

響 -HIBIKI-

 

※当ブログはネタバレを主とした内容で構成しています

 

 

 

Amazonの会員(通称プライム会員)でして。

ふらっとPrime Videoのページを見ていたら気になったので見てみました。

あと6日で公開終了なら見ておこうと思ったという理由もあって、

多分、タイトルに惹かれたんでしょうね。

大抵、本編の前に予告編を見るのですが、(予告だけ見て先に進まないこともしばしば……Amazonの予告編って単に本編から一部を切り取っただけのこともあるあるですよね)この作品は「よし見よう」と思えたものでした。

 

同名の漫画を映画化したものだそうで。

主人公・響 役に欅坂46の元メンバー・平手友梨奈さんを起用しています。

彼女の演技、本当にハマリ役だと感じました。

淡々と喋る様子。ダンスで培われたキビキビとした動き。鮮やかなドロップキック。

それらが混然一体となって三次元の響を作り出しています。

 

この記事では的を絞って、映画『響 ~小説家になる方法~』の主要ポイントを考えてみたいと思います。

映画についてのみ触れていますので(まだ私は原作を読んでいないので)、原作の内容について知りたい方はブラウザバックをおすすめします。

 

目次(クリック or タップで好きなところから読めます)

 

 

まず個人的感想から

 映画でも小説でも、何でもそうなんですけど見る前に心の中で(これってこういう作品じゃないかな~)って想像をしたりしませんか? 

 ストーリーを予想するのとは違っていて、あくまで個人的な考えで(この作品はこういう展開になるかな? あんな感じで面白いかな?)という当てっこゲームのような感じで。

 私の場合、この作品はそういった想像を良い意味で裏切ってくるものでした。

 想像していたものよりずっとリアルで、丸く収めて終わらせる感じがなくて、それでいてフィクションだから成り立つ爽快感があって。

 それもこれも、主役の響を演じた平手友梨奈さんの実力あってのことだと感じました。

 原作を読んでいないのに何を言うかと思われる方もいるかもしれませんが、彼女は「響そのもの」でした。アイドルの平手友梨奈が演じているのではなくて、響=平手友梨奈 というくらい、ハマリ役なのです。特にあの、透明で透き通るような表情で相手を見据える様子、からの……本棚倒し! 回し蹴り! カメラぶん投げ! マイク投げとドロップキック! 鮮やかなんです、これが。アイドルとしてキレッキレの踊りを披露していた彼女が放つ身体表現はどれも切れ味が凄い。他の俳優さんではこうはならなかったかもしれないな、と思うのです。

 物語の主題も、一部には暴力メインと言われていたりもしますが、時代に即した問題提起がなされていて、退屈なアイドル映画(と敢えて呼ばせて頂きます……)とは一線を画しています。

 これは原作漫画を読んでみたくなります(私の順番が逆なのです……お恥ずかしながら)。

 最初に断っておきたいのですが、私は特に平手さんのファンではありませんし、欅坂にも明るくない人間です。グループのセンターで踊っていたのが平手さんで、欅坂はアイドルっぽい歌をはじめのころは歌っていたのに、途中からゴリゴリ強めを押し出す主張強めグループになったことや、切れ味鋭いセンスの持ち主=平手さんというイメージを抱いている、程度の知識しかないです。

 ですから、「私の応援している平手ちゃん凄い!」というフィルターは特にかかっていないと思います(これが言いたかったところ)。

 

 

響は単に「暴力的な子」ではない?

 さて、響の「暴力性」についてですが、勿論響はカッとなったらすぐ手が出る、最近流行りの「アンガーマネジメント」が必要な人物だったりするのですが、そこには単なる「暴力性」とは異なる色味を感じます。

 作中で暴力をふるうシーンは主に……

 ・本棚の左右どちらに一冊の本を入れるかで凛夏と意見が分かれるシーン

 ・花井(祖父江の担当編集者)と書斎を出る、出ないで揉めるシーン

 ・凛夏にねちねち言う鬼島の顔を蹴るシーン

 ・芥川賞直木賞のWノミネート会見で記者にマイクを投げつけ蹴るシーン

 と大きく4つあります。

 ひとつめの本棚を倒すシーンは暴力的ではあるものの、凛夏に直接危害を加えようとしたわけではないように見えます(隣にいた男子学生が引っ張らなかったら危なかったかも……ですが)。どちらかというと文学について論じあっている熱量が本棚倒しにまで達してしまった、という感じですね(それにしても過激ではありますが)。

 ふたつめは祖父江の書斎で花井ともみ合いになり、花井をソファに押し倒し花瓶が割れるシーン。これは凛夏が仲裁して事なきを得るため、実際に響がどこまでやろうとしていたのかは不明のまま。しかし、響からしてみれば「いう事を聞くのに不満があったので抵抗した」くらいのものなのではないかと推測します。

 みっつめ、鬼島の顔にキックはある意味スカッとシーンでもありますが(?)これは凛夏との絆を感じていた響が凛夏を守ろうとして取った行動でもありました。(その後、凛夏には「迷惑だった?」と問いかけたところを「うん(ニッコリ)」と一刀両断されてしまいますが……)

 よっつめのマイク投げつけドロップキックのシーンは、花井が報道記者に「あなたが文章に手を加えたのでは?」と問いかけられて窮する花井を守るためでした(後のシーンで「ふみがいじめられたから、許せなくて」と言っています)

 

 現実的に考えれば、こんなときに相手を殴ったり蹴ったりするのは「普通ではない」のですが、響の言動の裏には「不器用な愛」があるとも感じられます。「友達がいじめられてたら助けたいと思うでしょ?」と問いかけているシーンがあるように、響の人に対する暴力の裏には時折、行き過ぎた友人愛というようなものが見えます。

 一方で、本棚を倒すシーンや、新人賞の授賞式で「殴るぞ」と喧嘩を売られたのに受けて立つべく駅まで相手を追いかけるシーンなどはやりすぎ感が強く、これをした瞬間に社会からは「ヤバイ人」として認識されるであろうこと間違いなしです。実際、こんな人が近くにいたら私だったら逃げますし接触を断ちます。危なすぎます(苦笑)

 映画を見る限り、両親の影が全くない(一部母親の呼びかける音声のみ存在)というのも気になるポイントで、もしかすると響はいびつな家庭環境にあったんじゃないか、と私は勘繰っています。情緒面において鬱屈している部分があるように思えます。

 (漫画版では響の両親が登場するのだそうで、今後機会があればそちらで答え合わせをしたいと思います)

 ですから、響自身はあくまで「良かれと思って」する行動が暴力に結びついているのではないか? と考えられます。人を説得したり自分の言い分を通したりするためには少々の(?)暴力は必要である、と考えるに至る過程が、15年の間に積み重ねられてきたのだろうと思います(だからといって……であることは大前提ではありますが)。

 

 

あるあるな展開ではないライバル、凛夏との関係

 こういうライバル同士の関係を描いた作品でよくある展開として、同時期に小説家となった凛夏が嫉妬して響と凛夏の関係がドロドロする、というものがあり、これが非常に多い(ほとんどあるあるな展開と言ってもいい)のですが、本作の展開はそういうものとは違いました。作られた「もう一度仲良しになりました」感を出さず、あくまでリアルに二人は和解し、互いを認め合う関係になります。

 そもそも凛夏の父親は有名小説家であり、祖父江の名で凛夏にも小説を出して欲しいと考えていました。凛夏はそれを(内心渋々)承諾。作中では「その方がたくさんの人に読んでもらえるだろうし」と言っています。しかし、恐らく心中では「祖父江の名がなければ自分は売れないのではないか」と考えており、花井にもそれとなくそのような話を振ってみたりもしています(花井は「審査員の先生の好みも入ってくるから」と、うまくスルーしており、父である祖父江に凛夏の作品は酷評されます)。

 祖父江名義で出すということに担当の花井は、「あのおっさん、祖父江凛夏名義で出せって」と零しており、どうやら祖父江は名声・子供を、自らの所有物として手放したくないと考えている人物のようです(映画版で見る感じでは一見大人しそうに見えて、実は何か[思惑が]あるだろうなー、という人物に見えます。抗えない大御所感)。

 凛夏は響に自身の作品を「つまんなかった」と言われ、やけになって響と絶交します。彼女は両賞の受賞によって「部数とかじゃない本当の評価」が出ると考えていたのですが、芥川賞直木賞はともにノミネートすらされず。花井が20万部突破の連絡を入れても「ふみちゃんが的確に直し入れてくれたから」と謙遜のようなことを言う。

 実はそれは謙遜ではなくて、「自分の思うように書けなかった」という後悔と、響に「つまんなかった」と言われたことへの葛藤だったのでしょう。事実、響との絶交解消後には「最初に私が考えてたのと全然違う話になってた」と零します。そして「もういいよ、書けない。私はあなたみたいな天才じゃない」と塞ぎこむのですが、物語終盤には「私、結局また書きたくなっちゃった」「どうして書き始めたのか、思い出して(また書き始めた)」と、執筆に対する意欲を再び見せるようになっていきます。

 響が凛夏にかけた言葉(「凛夏が駄目出しに納得して書いた結果、つまらなかったならそれは書いた凛夏の責任でしょ」)は一見ドライで突き放すように聞こえるのですが、実際には「思うように、面白いと思える作品を書くことが大事」というエールでした。

 響にとっては部数もお金も出版社も大切なことではなく、響にとってただ一つ大切であることは「作品が面白いこと」。「芥川賞直木賞の受賞で本当の価値がわかる」とした凛夏の意見に真っ向から反対意見を突きつけたかった。だから響は「Wノミネートだよ」という凛夏の言葉に「賞なんて関係ないでしょ。凛夏の小説にも、私の小説にも」と答えています。これは転じて言えば、響が「私が面白くないと思った小説について、友人であり作者である凛夏と意見を交わすことこそが、読者としての誠実な態度」と考えていると捉えることができます。

 そして私の予想をここに込めるなら、響は文芸部で見た凛夏の才能には気が付いていたのでしょう。だからこそ、発表した小説への違和感が拭えなかった。あんな才能のある凛夏がなぜ、こんな小説を書いたのか理解ができなかった。だから凛夏を問い詰めた。問い詰めたら凛夏は、ふみが訂正案を言って作品が全然違うものになってしまった、と言う。断ればいいのに、と響は思っている。響にとって、断るのは造作もないことだから。しかし凛夏にとって断ることは別の意味を持っている。凛夏は文壇にいる父の娘であり、忖度しないこと、断ることは考えられない。何か嫌なことを言われても(父の顔に泥を塗らないために)へらへらしていなければならない。ここで普通の物語なら「あんたに私の気持ちなんてわからないわよ!」と大喧嘩&再び絶交になるはずなのですが、凛夏はそうはなりません。響の言葉に打ちのめされた様子を見せつつも彼女は内面をじっと見つめ直し、再び再出発を切ります。この、凛夏の内面の深さに物語はもう少し焦点をあててもよかったのかもしれないな、と思ったりもします。

 「誰とでも仲良くできる代わりに、誰にも本性見せないからな」と中学時代からの同級生が凛夏について語っているように、凛夏は祖父江の娘としての人生を生きてきており、実際これからもそうあることが、あるべき姿なのだと認識している節があります。加えて容姿の美しさからという側面で「求められる自分像」というものを早くから認識せざるを得ない状況にあったのではないかと想像します。凛夏は本当は名義も「凛夏」だけにしておきたかったのかもしれません。しかし、父がそうはさせないことも知っていた。だから自分からその道に進んだのですが、それが結果的に「父の名前で売れたのではないか」という予感を凛夏に植え付けることになってしまうのです。

 映画を見ていてわかる通り、凛夏は容姿端麗で父が小説家の、いわば「デビューにはうってつけの条件」とでも言うべきものが揃った人物です。そんな人物に世間は「苦労していない」「親の七光り」「才能がないのに権力で売れている」という評価をつけがちです。凛夏のように外から恵まれているように見える人物でも、実際は(当たり前だけれども)様々な葛藤があるんだよ、ということをこの作品は示しています。

 (後で調べたところ、原作の凛夏は褐色肌のギャルっぽい少女でした。映画版とイメージ違いすぎませんか……?」

 

 

大人の世界を取り巻く“不条理”に蹴りを入れる

 響は様々なことに「蹴り」を入れて問題提起していくスタイルの持ち主(?)なのですが、それには世間の不条理が関係しているなと感じます。

 

 フリスク鬼島の毒舌

「パパの名前でデビューできてうれしい?」

「何へらへらしてるの?」

「親が有名作家ってだけの女子高生が遊び半分でデビューか。本当いいお父さん持ったね」

「その顔で?」

「文芸より向いてることした方がいいんじゃない? 援交とか。もうやってるか。凛夏ちゃんなら2万くらい?」

 ほんと、文章だけに書きおこしてみると偉い作家ということを除けばただのセクハラ親父でしかない鬼島。それに対して凛夏は(父親の手前)笑ってごまかすことしかしません。そこに響の蹴りが炸裂します。

 世の中には容姿や年齢、性別だけで他人をジャッジしようとする「大御所」がたくさん存在します。「女にはわからない」「これだから女は」「こんなガキにできるのか」といった言葉で、たくさんの年配男性が若い才能を潰している現実があると思います。

 

 

 ころころ回転する編集長

 編集長はセクハラモラハラ抵触しそうでしない、たまに抵触するギリギリのラインを飛行している人物です。彼の罪深さはどちらかというと権力に阿り、売り上げに始終する愚直なまでの「小説家はただの道具」というスタンスにあります。

 彼は思うに、小説なんて売れればいいし評価は周りの大御所に合わせておけばいい、と考えているのではないでしょうか。小説などは殆ど読んだこともないし読む意味も見いだせない。ただ金を設ける道具。そういう空気がプンプン漂います。だからこそ、周りの評価や責任問題に人一倍敏感で、くるくると意見を変えてその場をしのぎます。

 響の原稿をなんとか受け入れてもらおうとする花井に対して無下に断ったかと思えば、新人賞授賞式での響の容姿を見て「カワイイじゃーん。売れたらアイドル的に跳ねる可能性もあるな。彼女は大事にしておきなさい」と言う(ルッキズム全開。そして多分、原稿は一文字も読んでない)。その後の暴行事件を経て、「あの子はおかしいよ、普通じゃない」と言い、「それより今は祖父江凛夏だ」と矛先を転じる(リスクヘッジと、安全な“利益”優先)。Wノミネートの際には「すごい才能だとずーっと注目しておりました!」と嬉々として言う。

 これは編集長としてうまく立ち回るための彼の戦略であることに間違いないのですが、社長が逆にチャンスだと言ったことで、「うちからはあなたの小説を出すことはできません」と言っていたのを、100万部発行することにする。その話しぶりから残念なことは伝わってくるので、彼自身、響の作品を「金になる」「ビッグチャンス」と捉えていたことには間違いないようです。しかし、それがフイになった。怒るでも悲しむでもなく、残念そうに彼は「出せません」と言い、社長がOKしたら100万部へと転回する。これは彼自身も、この社会の本流に巻き込まれている証左でもあります。

 彼自身は彼女の才能を褒めこそすれ、社外のオトナに対しては「15歳で」とか「少女が」とか「アイドル的な」とかは絶対に言わない(だけど内心は思ってるし担当者にはカワイイからアイドル的売りになるかもしれないし、大事にしなさいと言う)。そういう頭の回るところが、彼が出世できた理由なのだろうなと感じます。

 事実、こういった小説に1mmの興味もない人物が出版社をはじめ、大きな権力を掌握しているというのは事実なのだと思います。小説に造詣のある人だけが、出版業界に関わっているわけではない。だから今の「アイドル至上主義」や「話題性があればいい」という風潮などが蔓延っているのだと思います。

 転じて言えば、「どれだけ才能に溢れた素晴らしい作品でも、売れないと判断されたら出版されないし日の目を見ることはない」ということです。

 

 

 響と同時受賞の新人作家・田中

「文壇はガキの遊び場じゃねえんだよ」

「(響の服装を見て)なんだこれ? どうせ話題性だけだろ?」

「読まねえでもわかるわ」

「無理して怒ったフリすんなよ、お嬢ちゃん。マジで殴んぞ」

 

 響のことを女性だから、年下だから、服装が、という理由で卑下する同時受賞作家・田中。彼はフリーターをしており、周囲の人間のことを「凡人」と考えています。自分は他とは違うんだ、だからその他大勢の人間は卑下しても構わないと考えているタイプです。彼の発言には男性共通の「見下し」が感じられます。そのまま成長(?)すれば彼も立派な「ゆるがせない大御所(問題のある人)」となっていたでしょう。

 しかし響と一戦交えた(?)あと彼自身ノミネートを逃し、響の作品を読んだこともあって、最終的には物語終盤で響の才能を認める発言をしています。

 田中は若さゆえに響を見くびってしまった(そして内心まだ中二病を抱えていた?)男性であることがわかります。

 結構こういう人、あるあるなんだろうなと思います。

 

 

 自殺を考えるほど追い詰められた山本

 彼に関しては被害者で、出版社や編集者が「話題性」「売れるかどうか」「世間に迎合するかどうか」などで作品を選んだ結果、落選が続いたことで何度も受賞を逃し、ついには自殺を考えるに至ってしまいます。そこで出会った響に、「売れないとか、駄作とか、だから死ぬとか、人が面白いと思った小説に作者の分際で何ケチつけてんの」と鋭い一撃を受け、「まあ、そうだな……」自殺を思いとどまります。

 自分にとってつまらない作品でも、他の誰かにとっては面白くて大切な作品。そんな言葉を響は自分なりのアプローチで山本に投げつけました。

 山本は親孝行をしたいという理由で小説を書き続けていました。発表までに親は死に、「間に合わなかった」と山本が言っているように、彼の才能の芽が出るまでには途方もない時間が必要でした。それは彼が諦めてこの世を去ろうとするには充分な長さだったのでしょう。

 目の前で列車に轢かれそう(なのにすんでのところで轢かれない)響を見て山本が目を見開いたのは、本心から驚いたからというよりは心を揺さぶられたからなのでしょう。だとすれば、このことをきっかけに彼は新しい作品を思いついたかもしれませんね。

 

他レビューへの個人的反論

 他の方のレビューを読んでいて、「ただの暴力的な女子高生」「天才だから何しても許されるというのは違う」「なぜ本を読んで人の心に触れているのに暴力的な言動をするのか」という意見がありました。

 個人的にはこれに関しては、「まさにこの作品の主題がここにあるのではないか」と感じました。※後述(おまけ)で詳細については語っています。

 「なぜ本を読んで~」の問いに関しては、人の心に触れているからこそ、許せないという強い感情が惹起されるのではないかと思います。軽薄な大人たちの言動ひとつひとつが響にとっては許せないほど強い怒りを引き起こす出来事であり、自分の周囲を脅かすものに対して自分は断固立ち向かう。嫌なものは嫌と言って拒絶し、誰がなんと言おうと忖度など一切しない。妥協したら自分が自分でなくなってしまう。響はそういう信念のもとに生きているのではないかと思うのです。(あれ? これって……不協和音と趣旨、似てませんか?)

 確かに暴力的な行為で相手を黙らせるということには手放しで喜べないですし、響はもはや犯罪級のことを平気でしでかしますから、それを称賛することはできません。

 しかし、その一方で「15歳の無名少女が文壇に物申すために穏便な方法で果たして効果があるのか」と問われれば、答えは謎の中に消えて行ってしまいます。

 実際、女性がきちんとした方法で議論を交わそうとしても「まあまあ、そんなカッカしないで、お嬢ちゃん」と言われるのが関の山ではないでしょうか。そもそも、男性の中には少女というだけでその者の意見を「未熟であり聞くに値しない」と断じる人も一定数います。えっ、そんなことはない? いや、それは貴方が気付いていないだけかもしれませんよ……。

 取った方法が正しいとはとても言えないけれど、相手に確実にダメージを与える方を響は取った。結果的にWノミネート&受賞し、出版も決まった(現実では絶対そうはならないでしょうが)。しかし、響の関心はもともと賞にはありませんでした。自分の価値を確かめるために出版社へ原稿を送っただけであって、それ以上の理由などなかった。響はそもそも、何のために小説を書いているのでしょう? そう考えると、少し見えてくるものがあります。

 響はもともと、「理不尽な大人に物申すため」出版社にやってきたのではないか。

 新人賞にノミネートされたから、といって花井にホイホイ着いて来たわけではなく、(口だけで「興味ない」とカッコつけて言っているわけではなさそうなので)賞には本当に興味がないけれど、それを取り巻く人間模様、権力構造のようなものには関心があった。そもそも、面白くない(「ゴミ」と呼んでいた)本たちが次々出版されているのに、面白い作品はノミネートもされない。そのことに響は気づいていたのではないかと思えるのです。

 ただの偶然かもしれませんが、そう思うと踏切のくだりでも相手が誰なのかわかっていて発言していたんじゃないかな、と想像しています。

 

 

(おまけ)世間の風潮とその問題点について

 さて、長々と書いてきましたが、このお話の主題について考えてみたのでまとめようと思います(私の単なる想像でしかないので的外れかもしれません)。

 

 私は常日頃から「人それぞれ」「みんな違ってみんないい」と言う言葉が嫌いです。語弊があるし誤解されると困るので詳しく説明すると、「人それぞれ」とよく言う人に限って相手との歩み寄りをしようとせずに一般的な平均値(彼・彼女らはそれを“常識”、“普通”と表現します)を求めようとします。「人それぞれ」という言葉でそれ以上の相手からの言葉を打ち切り、聞かないようにする合図とする人もいます。

 それはもう一方も同じで、「みんな違ってみんないい」と言う人の中にも、そうは言っても逸脱者は疎外するよ、という人や平気で差別偏見を流布しているような人もいます。

 ですから、私自身はこの二つの言葉をひとつの指標としています。そう思っていたら口に出さずとも態度や言動にはにじみ出るものです。それ以外の常に口から出すタイプの言葉は「単なる飾り」で、ファッションオタクと同じようなものです(ファッションオタクが悪いとは思ってませんが……)。真面目な人は「私は真面目なので」とは言わないし、優しい人が「私って優しいから」とは絶対に言わないのと同じ原理だと言えばわかりやすいでしょうか。

 昨今の世間を見ていると、この社会において「忖度できない」「場の空気を読めない」「自己主張が強すぎる」「(響の場合暴力事件を起こすなど)手放しで称賛できない問題点がある」人物は認められず、抹殺されていく風潮にあると言えます。それは“実際に行ったかどうか”に関わらず、昨今のハリウッド俳優のDV裁判などを見ていると“疑惑が持ち上がった時点で”排除されるという、ある種過激で極端な対応です。

 しかし、それが「普通」と現代では定義されているので、それに異を唱えること自体がタブーとなってしまっており、恐らくこの潮流は今後、どんどん過激化していくのではないかと予測しています。李下に冠を正さず。そういう、「間違われたり疑われた時点で終了」という世界が、これからどんどん広がっていきます。皆どんどん権力者には逆らえなくなり、見た目や世間の評判が悪い人間は淘汰されていく。たとえそれが誰の迷惑にならないとしても、世間に認められてリーダーになる人間は一点の曇りも許されず、健全で健康で、明るくて誰にでも親切にする……。そんな人、果たしているのでしょうか。

 響はこのことに対して「偽善」というプラカードをデカデカと掲げて一人行進しているように思えます。

 他レビューで響のことを「アスペ」「サイコパス」と揶揄しているものを見かけましたが、響は人の気持ちが分からないわけではありませんし、他人を利用するために感情を自在に操ったり、他人を道具扱いしているわけでもありません(むしろ編集長の方が作家を金儲けの道具としか見ていない)。

 しかし、響は「表面だけをさらっと見たら」すぐ暴力に訴えかける乱暴で犯罪まがいのことをする15歳の少女、と見えるのです。偽善で他人を利用しているのは大人の方なのに。努力を重ねた才能ある人材が選ばれずに死を迎えようとしているのに。性的な嫌がらせを堂々と言う大御所に誰も言い返せないでいるのに。響にはそれらすべてが、本質とでも言うべきものが漏れなく見えているに違いありません。しかし、それを覆すには方法がない。周囲に訴えたところで「大御所の先生だから」「まあまあ」となし崩し的な対応をされるのが関の山です。

 今後、響の実力がどんどん認められるとすれば、その時には響は「面白い小説が書けない嫌がらせを若い子にするな」とか、「金が儲かるからって面白くない小説を受賞させるな」とかズバズバ言ってくれそうな気がしますね。

 響にも問題は勿論ありますが、響だけに問題があるのではない。社会も膿んでいるし会社も膿んでいる。そして作中では響だけがそれを知っている。

 そういう大枠の主題をこの作品は抱えているのではないかと感じました。