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さよならクリームソーダ

さよならクリームソーダ (文春文庫)

さよならクリームソーダ (文春文庫)

 

 

 

※当ブログはネタバレを主とした内容で構成しています

※前提として一度読んだ人を対象としていますので、まだ読んでいない方の閲覧はお薦めしません

 

 

 

 

 

 

 

 あるひとりの人と恋に落ちて、もしその人が重病を患っていると知ってしまったら。

 いつまで生きられるか分からない相手のために、自分はどうするだろう。

 この本を閉じた時に考えたのは、そんなことでした。

 

 人は誰でも、いつ死ぬかなんてわかりっこない。

 それなのに、何故だか我々は都合よく「明日がある」と考えてしまっていて、持病がある人や本当に人生の期限を切られているような人を目の前にした途端、「人っていつ居なくなるのかわからない」と唐突に感じたりもする。

 

 若菜もそんな現実に直面した二人でした。

 

 それはよくある恋愛小説の成れの果てだった。主人公の男が恋に落ちる。魅力的で少しミステリアスな、何やら秘密を抱えた美しい女の子と。主人公は彼女の隣にいることに安らぎを覚え、彼の世界は徐々に彼女を中心に動き始める。

 ところがそんな二人は、彼らの力ではどうにもできない悲劇によって引き裂かれる。

 

 物語が始まる前に挿入された、この部分。これはまさに若菜とヨシキのことを予め示した文章だったということが、読み進めるうちに分かってきます。それは人によっては忘れていた現実を思い出すような不思議体験かもしれないし、私にとっては「友親のことだ」と思わせておきつつ実は若菜のことでした、という作者のお茶目なトリックに思えました(大抵こういうのって、主人公のことですもんね)。

 

今回は小説「さよならクリームソーダの個人的ポイントをお伝えしようと思います。

 

目次(クリック or タップで好きなところから読めます)

 

ハルではなくてヨシキを選んだ若菜

 付き合っていた彼女・ハルから離れ、若菜がヨシキに惹かれたのは何故だったのか。それはハルが「家庭」「家族」というものを重視する少女だったのと対照的に、ヨシキが歯に衣着せぬ物言いをする、真実を見抜く目を持った少女だったからでしょう。

 ヨシキの中にある凛とした冷たさ。そして彼女だけが見抜いた、若菜の仮面と本心。若菜自身、うまく周囲を騙せていると感じていたのに、初対面のヨシキにあっさり本心を言い当てられて、若菜は思わず号泣。

 それは、『本当のこと、そんなズバズバ言わないでくれよ』(p.102) という若菜のセリフ通りの意味もありながら、裏には「やっと自分のことをきちんと見てくれる人が現れた」という気持ちからの涙だったのかもしれないな、と思うのです。

 ハルは、スランプの最中にいる若菜に「せっかく新しい家族ができたんだから、家族の絵を描いてみたら」と提案します。若菜の複雑な心中を察することができず、ハルは無邪気に提案するのですが、それが若菜の中での決定打となったように見えます。

 

ヨシキが好きだった尾崎豊

 ヨシキが唯一残した形見であるプレイヤー。その中には尾崎豊の楽曲がたくさん入っていました。彼女が好きなのは、尾崎豊。でも、それは彼女が言うには『言いたいことをちゃんと自分の言葉で言う人が好き』(p.171)だから。

 ヨシキは若菜が本心を言えないことを対面するまでもなく見抜いていた子でした。だからこそ、浸るように、時には若菜に示すように尾崎豊を歌ってみせたのかもしれません。

 「こういう生き方もある」

 「自分の本心をさらけ出してもいい」

 直接言わないけれど、若菜にそんなメッセージを送っていたのでしょう。

 

友親と若菜の違い

 この物語の主人公・弓親と若菜は対をなすように、しかしどこか同化したように描かれています。二人の共通点と相違点を見てみましょう。

 

共通点
  • 親が離婚後、再婚している
  • 親のパートナーに子供がいる(義理のキョウダイがいる)
  • 「こうあるべき」という思考にとらわれて(いる/いた)

 

相違点
  • 友親:家族というものの理想を押し付け、涼にも加わって欲しいと望む

   →後に考えを変える

  • 若菜:家族から逃げる

   →後に、勘当されて自由になる

 

  • 友親:「~べき」「人に迷惑をかけてはいけない」という価値観に縛られている
  • 若菜:かつては友親と似た考えだったが、ヨシキとの出会いで考えが変わる

 

 きっと若菜は友親を見ていて「かつての自分と似たところがある」と気づいていたのでしょう。だから冒頭で彼に大金を貸した。それとなく尾崎豊を歌っていたのも、ヨシキとの思い出を噛みしめていたのかもしれませんが、少しはそこに友親へのメッセージ性が含まれていた、と捉えることもできます。

 二人とも、家族に居心地の悪さを抱えていることは同じ。しかし、一方は家族になろう、ひとつになろうと「あるべき姿」を追い求め、他方では家族から離れてひとりきりになりたい。そうしてはじき出されて孤独を深め、ついには消えてしまいたい、と願うまでになります。

 若菜もかつては友親のようにお面を被って生きていました。生徒会長として過ごした高校生のうちにヨシキと出会うことがなかったら、若菜もまた、正しい家族であろうとする努力を続けていたのかもしれません。

 友親がかつての若菜と似た人物だと想定すると、友親が義姉の涼に「実家に帰らないのか」と問いかけることは、ちょうど義妹の恭子が若菜を探し回っているのと同じことになります。ということは、若菜はかつての自分に追い回されている、と考えることもできるわけです。

 幸か不幸か、若菜はヨシキと出会って考えが変わり、「義理の家族と仲良くできなくてもいい」「周囲から求められた、あるべき姿の仮面をかぶらなくてもいい」と気づきます。しかしその後、彼女とは死別してしまい、再び家族という問題のただなかへと放り込まれる。ヨシキに出会って「本当の自分」を取り戻した若菜は家族から離れ、失踪するようにして行方をくらまし、大学へと通っています。

 そこへやってきた新入生・友親。彼は義姉である涼と折り合いが悪く、どうして彼女が自分をはねつけるのか、自分の絵を「気持ち悪い」と表現するのか理解できていませんでした。後に彼女本人から、「自分から距離を取ってやったのに」と言われるまで、友親は「家族のあるべき姿」を求めていたのでしょう。そこには少し、若菜の元カノ・ハルの姿が重なります。

 ハルは若菜の両親の再婚、新しい家族ができることを素敵だと思っており、家族の絵を描いたらどうかと若菜に提案しています。『やっぱり父と母、両方揃わないと』(p.177)と発言しているように、「家族が揃うのはいいこと=揃っていないのは不幸なこと」という図式がハルの中にはあります。

 友親も、ハルと同じに「家族はそろわないと」と(物語終盤手前まで)考えています。

 

 家族に対する考えが対極にある友親と若菜。そこにある相違は、友親が持つ「正しさに焦がれる気持ち・希望」と、若菜の「もう取り戻せない自分の一部を見つめる悲哀」にあると感じました。

 友親は未来に向かってぐんぐん進んでいく。独立しなきゃと思ったのも母のパートナーである舜一さんとの「家族」を壊したくなかったからで、何故自分がいると壊れたのかと問われれば、それは涼とは「姉弟ではいられなくなってしまったから」。ある意味愚直に「あるべき家族像」を追い求めたが故に、友親は大学へと進んだのです。

 友親が前へ向かって進んでいくのとは逆に、若菜は過去へ過去へと遡っています。

 若菜が歌うのはヨシキが好きだった尾崎豊。自分に価値観を変えるほどの衝撃を与えた女性を失ってから、『別人みたいになった。生きるのなんてどうでもいいって顔をしてた』(p.291)のです。過去を見つめる日々。ウォークマン尾崎豊を聞かなければ、外を歩くことさえままならなくなってしまった若菜。彼が立ち直るきっかけは一枚の絵でした。

 それは生前、ヨシキが描いていた「愛のトンネル」の絵。それは書きかけのままで完成することもなく、トンネルに人がいるのかいないのか、人物は誰で何人いるのかも分からないまま。

 若菜はヨシキの死後、絶望の真っただ中にいて、ヨシキの実家に線香をあげに行き、そこでヨシキの描いた油絵を見ます。この辺りから急激に若菜の世界は動き出し、ハナビで創作活動に耽る作中も、まだヨシキという夢のただなかにいるのではと感じます。

 絵に没頭すると、声を掛けても届かない。聞こえていたって無視することもある。そう言われるほど絵画に没頭するのは、彼自身が芸術を極める天才であり、没頭するだけの多大な集中力がある、という他に「ヨシキを取り戻す」という理由があったからなのでしょう。

 

明石小夜子の辿る“芸術家”の道

 自殺未遂をしたと噂の先輩、明石小夜子は根っからの芸術家として描かれていると思います。「私は、描くことしかできなかったの」(p.284)とのセリフ通り、高校時代から受賞歴は多数。絵を描く以外に生きていく道がないことを確信していながら、スランプに陥ってしまう。芸術家から芸術を取り上げたら、絶望しか残らない。彼女はタオルで首つりしようとして、母親に見つかって命を取り留める。

 一瞬超えかけた死線。そのおかげで再び描けるようになった絵には絶望の色が滲んでいて、彼女は自分で自分の絵を好きになれなくなっていく。

 彼女の回想シーンで印象的なのは、いろんな先生に指示を仰いでその通りに書いていたら迷子になってしまった、というところ。根っからの芸術家はだれの指示も仰いではいけない。なぜなら、自分の道を失って迷子になってしまうから。そういうことなのかもしれません。

 

ヨシキのクリームソーダと表題「さよならクリームソーダ」について

 ヨシキが作ってくれたクリームソーダはあり合わせの材料で作ったもので、メロンソーダにバニラアイスを添えたおなじみの、あのソーダではなく、炭酸水にバニラアイスを入れた即席クリームソーダでした。

 ハナビの近くにある「レモン軒」で友親が見たあのソーダは、ヨシキが作ったものと同じクリームソーダで、若菜への特別メニュー。レモン軒のママさんが事情を察したのかどうかは分かりませんが、若菜は大学に入って四年生となってもなお、ヨシキとの思い出を反芻するようにクリームソーダを啜っていました。

 表題「さよならクリームソーダ」は、若菜がヨシキの特製クリームソーダとさよならするまでの話であり、それはつまり、若菜がヨシキに引きずられて再会すべく、死を選ぶことに「さよなら」する、そういうお話だと思いました。

 最後のシーンで友親が若菜をクロッキー帳に描いたのは、「死ぬこと」ではなく「絵の中に入ること」で若菜とヨシキが出会うため、なのかもしれません。

 つまり、このお話は友親視点から描かれているから友親が主人公、というミスリードを誘い、実は若菜が主人公でした、というお話なのでした。

 

 

 

~以下は個人的な感想ですので、興味のある方のみお進みください~

※文章が粗雑な部分あります

 

 

 

この作品の素晴らしいところ

 素晴らしいとこの筆頭は、なんと言っても、青春群像劇にありがちな「クサい台詞」が少ないこと。これは私のように学生時代が過ぎ去って久しい人間にとってはとても大切なことです。

 私はとある作家さんが苦手なのですが(名前は伏せます)、その方の書くお話には必ずと言っていいほど「ウザいヒロイン」が登場します。ぶりっ子したりミステリアスな言動を取ってみたり、我儘放題言う。それがいい大人から見たら精神的についていけない訳です。なんだこいつ、鬱陶しいなあ。こんな子いたらすぐ逃げるわ。みたいな子です(笑)

 そういう子が登場しない。素晴らしいことです。まだ思春期なのか? と思えるのは涼くらいのもので、他の人物に至っては愚直に芸術を求めるが故にスランプで死にそうになっちゃう小夜子さんとか、手術に失敗して彼女を亡くしてしまったので生きる意味失っちゃった若菜くんとか、結構根は真面目で、真面目が故に病んでしまうパターンの人ばっかりなわけですよ、この話。

 現実ではありえないほどピュアな登場人物が多いのは、そこが芸術の戸を叩いた美大生ばかりだから、なのでしょうか? 感性を開いて開いて、答えを求めなければ芸術家にはなれない、と解説の川﨑さんも仰っていたと思いますが、「そんなんじゃ社会に出てやってけないよ?」と一般人に笑われそうなくらいの精神を抱えていないと、真に素晴らしい芸術作品は生み出せないのかもしれません。

 もう一つ、素晴らしいところとしてぜひとも挙げておきたいのは、「学園生活が楽しそうに描写されている」というところ。通学で数時間かかるようなところに通っていたおかげで、私は学生寮に住んだこともなく、部活動やサークルにも所属したことがありませんでした。そんな私が読んでいて、(うわぁ……楽しそうでうらやましい……)と思うくらい、苦しいことはあるけれど友親や若菜たちの学生寮「旭寮」は活気に溢れていて楽しそうでした。

 私も来世はあんな学生寮でワイワイとやりたいものです。

 

この作品の個人的マイナスポイント

 一方で、個人的に引っかかったポイントはまさかのクライマックス、屋上での飛び降り寸前シーンでした。

 うーん……何というか、そこに至るまでは着実に綿密に、自然な感じを計算されていた小説が、いつの間にか舞台劇になってしまった!? と思うほどにはドラマチックで、ドラマチックになりすぎてこちらの気持ちが追いつきませんでした。

 なんか友親めちゃくちゃ切れ散らかしたと思ったら、号泣してるし。なんじゃこりゃ? ってなってしまいました(読解力・入り込み力不足)

 どうせなら屋上のシーンも彩度は落としたまま、するっとさらっとドライに仕上げてあったら……と個人的には思いました。

 

さいごに

 いろいろ書きましたが、個人的には「さよならクリームソーダ」、とてもお気に入りの作品です。表紙も中身もキャラクターも素敵ですし、なんと言ってもクリームソーダ作りたくなりますよね(そこ?)。

 今年の夏はクリームソーダ巡りしよっと……。