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告白 / 湊かなえ

告白 (双葉文庫)

告白 (双葉文庫)

 

※当ブログはネタバレを主とした内容で構成しています

※前提として一度読んだ人を対象としていますので、まだ読んでいない方の閲覧はお薦めしません

 

 

 

 「告白」が私にとって初めて読む湊かなえ作品でした。

 当時は衝撃を受けると同時に、「こんな作家を見逃していたなんて」という思いで一杯になりました。 調べていると湊かなえさんの作品は「イヤミス(イヤな気持ちになるミステリー)」と呼ばれていて、一度読めば虜になるとも言われているもので、私もまさにそうなった一人。

 今回はそんな湊かなえさんの「告白」について、気になったポイントをお話してみようと思います。

 

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目次

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森口悠子の本当の復讐

 冒頭から始まる二年B組担任の森口悠子の独白は、あまりにも怒涛の勢いで読み進めてしまい、唖然とした方も多いのではないでしょうか。

 果たして、自分の子が同じ目に遭ったとき、どれだけの人間がこんな風に滔々と、犯人について話せるのか。私には幾らもいない、と思えました。

 森口は犯人の二人が誰なのか、クラスメイトならば誰でも分かるように示してみせ、さらに「給食の牛乳に血液を混入した」ことを「告白」します。しかしそれは、世直しやんちゃ先生こと、桜宮正義によって阻止されてしまいます。最後の最後まで娘の父親としてではなく、教師として正しくあろうとする夫に悠子は愕然としますが、それによって少年A・Bはすんでのところで危機を逃れるのでした。

 しかしそれで森口の復讐が静かに幕を閉じる筈もなく、物語終盤、恐ろしい真実が電話越しに明かされることになります。少年Aが爆破しようとした爆弾が爆発したのはAのいる講堂ではなく、Aの生みの母がいる研究室だ、と。少年Aの反応を描くことなく、物語は幕を閉じるのでした。

 悠子は果たして本当に爆弾を仕掛け直したのか? 教師だから生徒を守る義務がある、と言ったところを逆手に取るのならば、最早教師でなくなった悠子は「愛美の母として」復讐を遂げたのでは、とも思えます。

 しかし一方で、森口の愚直なまでの己を律する態度や教師として正しくあろう、過ちに個人的な情動を持ち込まず、極めて冷静に物事を理性的判断のもとで行おうという態度を見るに、これも茶番の一つなのかもしれません。あるいは、最早悠子を止めることのできない桜宮正義に代わって、誰かがそれを阻止したという可能性さえあります。

 ただ、個人的に感じたのは、悠子が復讐したかったのは本当は少年Aにではなく、自分の息子を邪魔者として切り捨て、子供を切り捨てた癖に新しい家庭を持とうとしている母親に対してではなかったか、ということでした。

 悠子は愛しい命を奪われた。そのきっかけは、元を正せば研究に生きようとしていた気持ちに蓋をして結婚し子供を設け、果ては邪魔になったからと簡単に命を投げ捨てるような、いたいけで純粋で、母親にどうやったらたどり着けるかと悶々とするような少年Aを弄んだ母親に対しての「鉄槌」であるような気さえするのです。母親として息子を打ち捨てたなら、同じ轍を踏むことは許されない。悠子はそんな風にも考えていたように思うのです。

 

少年Aを虐待した母親

 少年Aこと渡辺修哉の母親は修哉曰く、「日本でもトップクラスの大学の博士課程で電子工学を専攻していた」という経歴を持ちます。バスでの事故に巻き込まれ、意識を失いそうなところを男性に助けられます。これがきっかけとなり、二人は結婚。入籍の前後で修哉を授かっています。

 修哉のウェブサイト文章である第五章「信奉者」では、『それをきっかけに二人は結婚し、自分が生まれた。いや、順番は逆だったかもしれない。』(p.236)とあります。修哉はその後の文章で母親に対して痛々しいまでに解釈を歪めていることから、恐らくこの順番は修哉の思うように「入籍→修哉を宿す」というものではなく、授かり婚だったのでしょう。

 もののはずみで関係を持ってしまった男との間に子供ができてしまったから、母親は一度家庭に入ろうと決断し、生まれた息子に自分の夢を継いでもらおうと、眠る前に電子工学の話を連日連夜、するようになります。しかしやはり、道半ばに置いて来た自身の夢をあきらめきれず、夫に隠して論文をアメリカの学会へ送付。それがきっかけで自分が研究者として認められる存在である事実を再確認してしまった彼女はいてもたってもいられなくなってしまいます。

 想像でしかありませんが、この時の彼女は「母親でしかない自分」に嫌気が差していたのかもしれません。家事が向いていなかったのかもしれないし、夫があまりに呑気で、自分が諦めたキャリアに対してあっけらかんとしているので、腹がたったのかもしれない。とにかく彼女は自分の中に溜まった鬱屈した気持ちを、息子である修哉にぶつけるようになります。この暴力・虐待を、幼い修哉は「自分が邪魔なせいである」と的確にとらえながらも、一方で『自分が死ねば、母親は才能を十分に発揮し、長年の夢を叶えることができる。』(p.238)と痛々しいまでに思い詰めていくのです。

 母親はやがて離婚し、修哉のもとを離れていきます。虐待をしている最中も我に返ると我が子を抱きしめた。それと同じように彼女はその直前、僅かに息子に対して母の顔をして優しさを見せるのです。そこで修哉は「母親は自分のことが好きだけど、別れるしかないんだ」と思い込もうとします。事実、自分は邪魔だから捨てられるのだと自覚しているにもかかわらず。

 終章「伝道者」で森口悠子が『その場限りの無責任な愛情』(p.298)と表現していますが、まさにその通りなのです。

 彼女が修哉を虐待していなかったら。

 彼女が離婚の際にきっぱりと別れを告げていたら。

 あるいは少年Aは存在しなかったのかもしれません。

 子供はどんな親であっても、彼(女)に愛されたいものなのです。

 

少年Bを虐待した母親

 少年Aの母親と対照的に描かれているのは少年Bの母親です。どちらも今では毒親と呼ばれるのではないかと思うのですが、少年Aの母が純粋な児童虐待であるとすれば、少年Bの母親は過保護さで子供をギチギチに縛り上げてしまうような母親でした。

 第三章「慈愛者」が彼女の心の内を表しているのですが、ここで見られるのは彼女の「異様なまでの認知の歪み」です。参考までにいくつか抜き出してみましょう。

 

 もともと私は森口が嫌いでした。多感な時期の息子の担任が、シングルマザーだなんてとんでもない、と校長宛に手紙を書いたこともあります。(p.126)

 幼い我が子を亡くしたことには同情しますが、そもそも、職場に子供を連れてくることが、おかしいと思うのです。仮に職場が学校ではなく一般企業なら、子供を連れてきていたでしょうか。彼女の公務員という肩書きに対する驕りや甘えが、事故を引き起こしてしまったのではないかと思うのです。(p.126)

 主人は「警察に報告した方がいい」と言いました。とんでもありません。直樹が共犯の罪に問われたらどうするつもりなのだ、と訊ねましても、直樹のためにもそうした方がいいと言うのです。男親はこれだから困ります。私は主人に事件のことを報告したことを後悔しました。やはり、直樹は私が守ってやらなければなりません。(p.130)

 もしも、直樹が本当に事件に巻き込まれていたのであれば、私がそれに気付かないはずがありません。森口に促されるまで、直樹が私に黙っているはずもありません。
 そうです。きっとそうです。これは全部、哀れな森口の作り話なのです。それなら、渡辺という子も被害者です。
 悪いのはすべて森口なのです。(p.131)

 

 読んでいて途中で吐き気を催すほどの歪みではないでしょうか。少なくとも私は途中で気分が悪くなりました。

 彼女に欠けているのは「事実に基づく想像力」です。公務員の怠慢がニュースで騒がれ出して久しいですが、彼女はそれを鵜呑みにしているのではないか。そしてニュースで取り沙汰されているのと同じに、担任の森口も同じような人間だと決めつけてしまっています。実際には森口は貧しい家の生まれで進学の奨学金が必要だったから公務員(教員)を目指していました。

 「幼い我が子を亡くしたことに同情」と日記には記しつつ、その後の言動は森口を一方的に攻め立て、息子を異様に庇う内容になっています。少年Bの母親の頭にあるのは完璧な家族と、立派な息子。その息子に傷一つないと信じたくて都合の良いように現実を捻じ曲げてしまっているのです。立派で文句のつけどころのない息子を作り上げるためには、自分が守ってやらねばならない。そんな気持ちから、彼女はモンスターペアレントと化しています。校長に何かと手紙を書くことも息子にはバレてしまっており、やめてくれと言われてもやめる気はありません。

 しかし、単なる過保護な母親が虐待にあたるのか。不思議に思う方もいるかもしれません。最近では「モンスターペアレント」「ヘリコプターペアレント」などと続々と新しい語が生まれていますが、子供を安全圏でしか生活させない、生きさせないということはその子の自主性を奪い、自分一人では何も判断できない苦しい人生を歩ませるのと同じなのです。

 実際、直樹は担任の告白を真に受けたあと、「両親に移してはいけない」「母さんに追い出されたら生きていけない」と思い詰め、異常なまでに潔癖になり、やがてウェルテルの大声家庭訪問(!)がきっかけでコンビニで事件を起こし、そのことがきっかけで母親に襲われる、という末路を辿っています。

 母親は完璧でない息子と共に心中しようとして刺殺されてしまいます。

 直樹の姉は母の日記を「母親が先に殺そうとした証拠・遺書」として扱えないだろうかと考えるに至っています。姉は割と引いたところから冷静に家族を観察しており、母親は息子にしか興味のない過保護で理想家、父親は(半分は本当になるとしても)鬱病になったフリをするだろうと分析しています。そして弟が黙秘権を行使している限り、救える方法はこれしかない、と考えたのです。しかしここで姉の冷静な一面が垣間見えます。

 

姉のためにも、父のためにも、自分のためにも、そして母のためにも、弟を無罪にしてやりたいと思う。

 でも、それをするのは、弟の本心を確認してからだ。(p.167)

 

 他のすべてを犠牲にして息子を守ろうとした母。現実逃避のために鬱病になる父親。流産しかかった姉。そして犯罪者の身内になるよりも被害者の身内になることを望む自分のため、彼女は決意します。

 やはり、血は争えない、ということなのでしょうか?

 個人的にはその後の病院で対面した姉弟の場面、そして姉が直面した事実と決断のシーンについて見てみたいなと感じました。

 

「民衆が裁く」ということについて

 学級委員長である北原美月は作中で、『愚かな凡人たちは、一番肝心なことを忘れていると思うのです。自分たちには裁く権利などない、ということを……。』(p.85)

 と言っています。それは単にクラスメイトに向けた自分の思いというよりは、美月の話し口調で語られるこの章全体が「森口悠子という相手に対して送ったもの」という前提から、森口その人に向けられたものであることが分かります。

 美月は森口に対してもまた、「あなたに相手を裁く権利などない」と主張しているのです。

 少年Aの章(4章:求道者)で語られるように、美月はやがて修哉に絞殺されてしまいます。ルナシー被れだったという美月。彼女は大量の薬品を所持してルナシーを追い求め、「自分はルナシーだ」と思うまでに至っています。彼女が殺されてしまった直接の原因は、修哉の前で「以前は直樹が好きだった」と告白したことと、修哉のことを「マザコン」となじったこと、さらにそれに続く「真実の提示」でした。修哉は自分が見下していた直樹と同列に語られたことが許せなかった。それに輪を掛けて目を背けていた真実を白昼のもとに曝されたことで、我を忘れて美月を殺してしまいます。

 彼女の業は「正しいと思ったら相手に真実を突きつけずにはいられないこと」。小学校の頃に「ミヅホ(美月アホ)」とあだ名をつけられていたことから推測するに、美月は修哉と同じように周囲の自分より成績が低いもののことを「アホ」として見下していたのでしょう。それに対して周囲から反発を食い、つけられたあだ名が皮肉を交えた「ミヅホ」だったのです。

 作中で修哉が『君と僕は、とても似てるんじゃないかと思ったから。』(p.101)と言っているように、恐らく修哉と美月は似た思考回路の持ち主だったのでしょう。周囲と自分は違う、特別なのだ、と考えていた。思春期特有の思考ではあるのですが、その傲慢さゆえに修哉は人殺しをも厭わない少年に、美月は自らの言葉が原因で命を落としてしまいました。

 

登場人物の中に隠された嘘

 巻末掲載の中島哲也監督インタビューに、

 

 本編は全編モノローグで構成されていますから、一見、全員が自分の真情を吐露しているように見えます。しかし、彼らが真実を話しているという保証なんかどこにもない。そのあたり、湊さんは決定的なことをまったく書いていないんです。(p.306)

 全員がものすごい勢いで「あの時私はこうだった、どうだった」としゃべっているけど、その中には本人がわざと嘘を言ったり、本人すら気づかない嘘がまじっていることもあるわけです。深読みしようとすれば、いくらでもできました。(p.306)

 

 と言っているのですが、そのことについて考えてみたいと思います。

 ここで中島監督が挙げているポイントとして、「支離滅裂=それだけ正直」「辻褄が合っている=嘘がある」という点があるので、そこに焦点を絞ってみます。つまり、次の二人の語る内容に、嘘があると仮定しました。

 

  • 森口悠子
  • 渡辺修哉

 

森口悠子の嘘

 悠子は本当に修哉の爆弾を解除し、研究室にセットし直したのでしょうか。

 悠子のことを考察するうえで、相反する2点が交差していることにお気づきでしょうか。

  • 悠子は桜宮の考えに共感し、教師として生徒を守らねばならないと考えた
  • 悠子は教師である前に一人の女性であり、愛美の母親であろうとした

 悠子の嘘は二つあるように思えます。

 まず1つは「血液を混入した」という嘘。これは作中でも終盤に悠子自らが語っている嘘です。しかしこれは、夫である桜宮が悠子の血液混入実行後、ひそかに行われたことですから、悠子は実際には「血液を入れた」と嘘をついてはいるものの、実際に混入していたし、少年ふたりに制裁を与える気は十分にありました。

 2つ目の争点となるのは、修哉の爆弾について。

 夫・桜宮の考えを知った後、悠子は二度目の復讐に乗り出します。それが爆弾を修哉の愛する母がいる研究室で、修哉自身の手によって爆発させることでした。最終盤、悠子は電話口で修哉にこんなことを言います。

 

 私は桜宮の行為を受け入れることができませんでした。私の幸せなどと言いながら、死の瞬間まで、親であるよりも、教師であろうとした彼を許すことができませんでした。

 

 おそらく、当時は許せなかったのでしょう。その後のことを、悠子は故意に隠して語っているのではないでしょうか。自分の「復讐」が、修哉によく届くように、です。

 桜宮が死ぬ直前の「告白」を受けた悠子は、桜宮が自分の復讐の機会を奪ってしまったこと、そして(悠子自身が言うように)父親であるよりも教師であろうとした夫のことを許せなかったのでしょう。悠子は教師である前に一人の人間、そして愛する愛美の母親である、という考えが強い人物だったことも窺えます。

 しかし、爆弾を設置した段階で、或いは解除した段階で、考えを変えていたという可能性について、言及されていませんがあり得る話だなと思います。「殺されたから殺し返す」「奪われたから奪い返す」では、自分の心も晴れないことを、悠子は終盤で口にしています。

 

 実際、復讐を果たしても、あなたたちを憎いと思う気持ちはまったく変わりませんでした。きっと、あなたたちをこの手で直接、刃物でずたずたに切り裂いても、同じ結果だったと思います。すべてを水に流せる復讐などありえないのだ、と気づきました。

 

 これはまさに、牛乳への血液混入について語っており、復讐など無意味だと悠子が気付いたことの証言でもあります。ですから、悠子は実際には爆弾を解除しただけで、再設置などはしていないのではないかと思うのです。

 さらに言うならば、これも嘘ではないかと深読みすることが可能です。

 

 あなたがどのくらいの規模のものを想定していたのかはわかりませんが、鉄筋の建物を半壊させるほどの効果は優にありました。あなたの才能を信じて、遠くに避難していなければ、私もたいへんな目に遭っていたかもしれません。

 

 実際には爆弾はさしたる効果もなく、悠子は実際に再設置をしたけれども肩透かしを食った。そういうことなのかもしれません。

 

渡辺修哉の嘘

 少年A・修哉はそもそも果たして本当に、母親の後を追いかけるだけが生きる理由の全てだと思っていたのでしょうか。思春期の精神的な不安定さや反抗期に輪を掛けて問題を複雑にしているのは、果たして彼の実母だけなのでしょうか。

 修哉はウェブサイトに投稿した記事(独白)の中で、しきりに母親に固執する自分を強調します。母親がアメリカの学会に論文を送って評価された際の感想はこうです。

 

 母親がいなくなってしまうかもしれないという不安よりも、彼女を高く評価してくれる人がいるという喜びの方が優っていた。

 

 これは嘘ではないかと思うのです。9歳の子供が、自分よりも「学会」やら「研究」やらに夢中になる母親に対して、果たして本当に「評価してもらえている母が嬉しい」と思えたのでしょうか。そこに「不安」は本当になかったのでしょうか。私個人としては、不安はあったのだと思います。

 しかし、その気持ちがもし嘘でないなら、この部分は「修哉の母親は夫にきちんとした扱いをしてもらえていない」ということを暗に示している文章なのではないでしょうか。元研究員だった母親を家政婦がわりにしか考えていない父と、研究から切り離されて家庭に閉じ込められた母、という図式です。

 それは図らずも悠子の言う通り、『自分の欲求が満たされないために、幼い子供に手を上げ続け、心の中を無にしたあげく、欲求が叶えられた途端、その場限りの無責任な愛情を残して去って行った』(p.298)母親に問題があった、と捉えることができるのです。

 修哉は、他にもこんなことを言っています。

 

 例えば、あるAという人物に対して、厳しい母親に育てられた人は、この人は優しい人だ、と感じ、優しい母親に育てられた人は、この人は厳しい人だ、と感じるように。

 

 これは誰のことをさしている文章なのでしょう。例えば、悠子のことだったりするのだろうか、と私は考えました。文中で対比されている「厳しい母親に育てられた人=修哉」「優しい母親に育てられた人=直樹」ではないでしょうか。

 だとすれば、自分は厳しい母親に手を挙げられて心の中が空っぽになった存在であり、一方の直樹は母親に甘やかされて育ったために引きこもりになってしまった、と(修哉は)考えていることが分かります。さらに自分(修哉)はエイズに感染したら「母親に会えるからラッキー」と捉えているので、悠子に対して「チャンスをくれた人」にも思えていたわけです(残念ながらその後、陰性が判明し、大学で新事実を知って凶行へ駆り立てられていくわけですが)。

 さらに、美月に対してこんな風にも言っています。

 

 彼女に好かれるため、「誰かに褒めてもらいたかっただけだ」などと同情を誘うような、セコい作戦までとったくらいだ。本当は「誰かに」ではなく、「母親に」だったが、大成功だった。

 

 実際に修哉は彼女(美月)好かれたかった可能性も勿論あると私は考えました。母親に手が届かない虚しさを、当座の間、彼女で満たしたっていい。そんな風に考えていたのかもしれません。だから、美月を殺してしまった今となっては「セコい作戦」だけれども、実際には本気の作戦だったわけです。

 しかし、美月には「マザコン」と罵られ、自分がずっと目を背け続けていた事実を目の前に曝されてしまいます。そして修哉は彼女を絞殺。「母親」がだめなら「誰か」に認められても良かったのです。それで母親に手の届かない自分を延命することができるのですから。しかし、結果的に彼は「誰か」というカテゴリの誰にも褒められることはなく、肯定されることはなかった。

 ただ、それだけなのです。

 

映画版を見て思ったこと

 参考までに中島哲也監督の映画版を視聴しました(この記事執筆時、Amazon primeで無料視聴可)。映画を見て感じたことについても触れてみたいと思います。

 

相違点

 まず原作と映画で異なっていた点を挙げてみます。

  • ウェルテルに初めはノリノリなクラスメイトたち
  • 直樹の母親が原作よりもアッサリしている
  • 修哉の「僕の命は軽いけど、君のは重いから」(原作では、『君と僕は、とても似てるんじゃないかと思ったから』[p.101])
  • トロフィーで殴って手で絞殺される美月(原作は素手で絞殺のみ)
  • 悠子と偶然居合わせている美月(映画オリジナル演出)
  • ウェブページにコメントが来て、修哉が大学を訪れる(原作ではコメントなし)
  • 逆転時計で時間を巻き戻す描写:映画という映像媒体だからこそできる技

 些細な違いから、映画オリジナル表現まで様々ですが、特に映画版で違いが顕著なのは、以下のシーンです。台詞(概要)を箇条書きにしてみます。

 

直樹「死ぬ……! たった13歳で、まだキスもHもしたことないのに! 何で?」

直樹母「直くんはいい子。勉強だって運動だって……」

直樹「人殺しだって?」(左右の血濡れの手を示す)

直樹母「やれば出来る子」

 

 これ、文章では伝わり辛いですが、めちゃくちゃコメディーチックになってます(笑) ここまでコメディーにする必要あったのかな? と思うほどです(興味がある方はご覧ください……)

 さらに、映画版を見て気になった点が一つ。それは、「美月の手紙は投函されたのか?」ということです。映画版では修哉の研究室で過ごすようになった美月が、ある夜ファミレスで偶然悠子と出会い、真相を知ったうえで悠子に当てたメッセージを(PCで)綴っている、ということになっています。さらにその文章は美月殺害後に修哉によって消去されています。

 原作では悠子が職員室でよく読んでいた文芸誌の新人賞に応募した文章、という体で書かれていますが、実際にこの文章がどうなったのかについては、一切示されていません。 

 

個人的見解

 私個人が映画版を見て抱いた感想はそこまで深いものではなく、どちらかというとあんまり内容がなくてつまらないです。

 たとえば、

 「直樹の家が思ったより豪華だなあ。しかも凄く洋風なんだ」とか、

 「全体的に『女王の教室』を彷彿とさせる雰囲気の作品だなあ。悠子は阿久津真矢(「女王の教室」)や、三田灯(「家政婦のミタ」)と似た雰囲気を持っている人だな」

 というようなことでした。

 悠子と似ていると感じた他二人も、女性で、どちらかというと職業に身をささげるタイプ、そして抑圧した感情を抱いている人物です。

 興味のある方はこちらもどうぞ……。

 

 

 

もう一人の犠牲者、ウェルテル

 悠子の復讐。その犠牲者となったのは少年A、少年B、(結果的に殺害されてしまった)美月だけではありません。そう、ウェルテルです。

 「森口悠子の嘘」の項で言ったことと矛盾してしまいますが、悠子はやはり心のどこかで桜宮を許せない気持ちがあったのではないでしょうか。だとすれば、桜宮を心から慕っており、何かと目障りで暑苦しいウェルテルこと、寺田を復讐の駒として利用することにも躊躇いは一切なかったのでしょう。サポートをする振りをしながらスパイさせ、必要とあらば、攪乱のためにいじめを煽るようなことを言わせたり、引きこもりを圧迫して爆発させようとする。

 そう、「森口悠子の嘘」の項目では触れませんでしたが、森口は少年Bこと直樹に対しては完璧に復讐を遂げています。同じだけ、同じ質の憎しみを双方に与えようと彼女が画策しているのだとすれば……。

 あとは皆さんのご想像にお任せします。

 

その他、この作品で気になったこと

 すでにかなり長文を打鍵しているわけですが、これもひとつひとつ取り上げていると本当に長くなってしまうので出来る限り箇条書きにしたいと思います。

 

  • 瀬口義和(少年Aの母と再婚した教授)は、再婚した相手に子供がおり、それがコンクール入賞した少年だと知っていたのではないか。そのことに自分は気付かない振りをして(目を背けて)いただけではないか?
  • 悠子のスパイであるウェルテルに図らずも気付いてしまった直樹と、完全に自分がスパイをやらされていることに気付かず、悠子の掌で転がされたウェルテル
  • いわゆる「無敵の人」になった悠子、そして修哉も心理的には無敵の人と化している(大切なものを失ってしまった者同士)という点で、二人には共通項がある
  • 悠子がとった行動が修哉への「復讐」ではなく「再教育」であると仮定した場合、悠子は修哉が改心しない限りこの手の「教育」を繰り返すだろうということ。そしてその行動は結局、悠子の独り相撲になってしまうのではないか。少年法に守られた未成年たちが大した意味もなく他人を傷つけたり殺めてしまう。それを揺さぶり揺さぶり、悠子がどれだけ尽力したとしても、子供たちには響かないのではないか

 

感想

 「誰も悪くない」とは決して言えない、むしろ「登場人物全員悪い」のがこの作品であり、見どころだと感じました。

 主体として「幼児の殺害」というところにスポットは当たっているのですが、その根を掘り起こせば、人間の鬱屈した感情の恐ろしさ、複雑なようで単純な殺意というものが見えてきます。

 4歳の愛美が死んだという事実に関しても、ある人物は「公務員の怠慢」と取り、ある少年は「とても愛されている子供に嫉妬した」と表現する。劣等感を埋め合わせるために、「あいつができないことを僕はやり遂げた」という高揚感を求める者もおり、まさにその視点は千差万別です。

 「集団の悪意」に焦点を絞れば、いじめ、HIVへの偏見などが挙げられます。美月が作中で指摘したように、自分に裁く権利があると考えた民衆が、ある特定の人物を迫害する様は歴史の中でも度々繰り返されています。最近で言えば、流行性感染症に初期のころに罹ったアジア系の人間がヨーロッパ各地で物を投げられたりということがありました。歴史は今も続いているのです。

 「少年法」というテーマも度々登場しますし、「虐待」や「ひきこもり」と、様々な問題提起を大量に含み、尚且つ後味が宜しくない。

 急激に読むものを引き込みつつも、読後にはどろっとしたわだかまりを残すようになっているのですが、これこそ著者の意図なのでしょう。もやっとしたりギクリとさせられたり、そういうことがなければ人は改めて自分事として真剣に考えてみたりはしないものです。

 まずは新聞やニュースで発表される死因、事故の詳細について疑うことから始めよう。本当に誰でもやるような平凡なことですが、私はまず、そう思いました。